藤田 遼

 

技術革新によりますます急速に情報化する現代社会において、情報を扱うためのリテラシーの獲得は、すべての市民にとって必須である。そのための数学教育の一つの柱として、統計リテラシー教育の一層の充実を図るべきだ。

 

近年、統計的な考え方を理解させることが重要である、という認識自体は強まっている。そのことは、現行の学習指導要領に移行した際に、統計的な内容が新たに多く盛り込まれたことからも認められる。例えば、中学校では統計資料に基づいて集団の傾向や特徴を捉える単元、標本調査の考え方を学習する単元が新設された。また、高等学校では単元の配列が大きく変わり、文系・理系にかかわらずデータの分析法や統計的推測の考え方を学ばせようという意図がうかがえる。

 

この指導要領変更の際に、「行列」が高等学校の単元から削除されてしまい、そのことに対する反対意見も多い。確かに、行列は理系の大学では分野にかかわらず基本的な言葉として用いられるため、理系に進む高校生が早い段階で行列に馴染んでおくことは役に立つ。しかし、今までの行列の単元は、主に2次の正方行列の計算ばかりが扱われ、行列を系統的に学習させる内容とは言い難かった。また、2次正方行列を学ばせることの一つの大きなねらいは、平面における回転を演算の形で理解させることにあったが、現行の指導要領においてそれは複素数平面を扱う単元で補われる。そして、行列が主に理系に進む生徒だけが学ぶべきものだったのに対し、統計リテラシーは文系理系にかかわらず、市民としての生活で必要になる。以上の観点から言えば、現行の指導要領が統計的な内容を充実させたことは評価すべきである。

 

しかし、一方で現行の指導要領においても、統計的な内容は依然として統計の記述形式を学ぶことのみに留まっている。実際に必要となる統計的リテラシーはもっと実践的で、統計の記述形式をただ理解することに留まらない、総合的なものであるはずだ。

 

現代の社会には統計データという形で様々な情報があふれており、インターネットの普及によってその可視化は進んでいる。私たち市民はリスクを回避するために、情報をもとに自らが置かれている状況を認識し、判断することが求められる。その時、統計的記述を鵜呑みにするのではなく、一見客観的に見える統計データの裏にもあいまいさや誤解を招きやすい性質が潜んでいることを認識し、批判的に捉える能力は重要だ。

 

例えば「明日の降水確率は50%だ」と言ったとき、それは「過去に同じような気象状況であったときの降水の情報をもとに明日の雨の降りやすさを割り出すと50%である」という意味である。これは、経験則に基づいて算出されたものであり、数学の確率の授業で学ぶ「サイコロを振って1の目が出る確率は1/6」のような理論値とは異なる。これは「地震の発生確率」や「ガンの発生確率」なども同様だ。これら経験則からくる確率は一つの指標にすぎず、データの蓄積に伴って刻々と変化するという意味で、確定的な数値ではない。このいった認識は、実際に社会で扱われている生の統計データに触れることを通して初めて培われるものではないだろうか。

 

すべての市民が統計データを批判的に捉え、より良い自己決定をする能力を培うためには、従来の数学教育の枠を超えた、より総合的な統計リテラシー教育の実施が求められるだろう。